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続 思い出すまま (30)阿部さんのこと(その4)

AvatarA父の散文を掲載した「思い出すまま」は、「(36)ヒーロー」で完結したと思ってた。
昨年父が亡くなった時に、父のPCのドキュメントをバックアップしていたんだけど、探し物が合ってフォルダを探っていると37番目以降の文章が別のフォルダに入っていることに気づいた。

これもまた昭和を生きてきた庶民の記録となっているので毎週1つずつ公開しようと思う。
父は愛知県知多半島の大野町に生まれ、中京商業の夜学から予科練に行き、戦後闇屋を経て神戸の小さな貿易会社で働いて家族を養ってきた。
昭和4年生まれの男は何を見て何を感じてきたのか?
それについて話ができればと思っている。


(30)阿部さんのこと(その4)

昭和36年(1961)杉岡社長が、僕ら三人に会社を譲ると言い出した。
二度の倒産をはさんで12年、杉岡さんにしてみれば「そういつまでも面倒は見切れない」というのが本心だったと思われる。
突然の提案に戸惑っていた茂田さんと僕に、「やろう!」といって踏ん切りをつけてくれたのも阿部さんだった。
社長が退いて別会社を作り、若い三人が会社を引き継ぐという異例の交代に、銀行にも取引先にも説明がいったが、そのへんは阿部さんが持ち前の人当たりの良さでうまく納得させてくれた。
貿易のコツのようなものも大分解ってきたころである。
茂田さんを新社長に据え、僕と二人で必死にコレポンを書き、見本を送ったのが少しづつ実を結ぶようになってきて、「何とか行けそうだ」と思えるようになったのは、昭和39年だった。

アフリカの年といわれ、それまでヨーロッパ、特にイギリス、フランスの植民地だった地域が次々と独立した1960年以降、それまで宗主国の言うがままになっていた輸入が、自分たちだけで出来るとばかり、後先もなく輸入に走ったのだ。
物はいくらでも欲しい人たちである。こうして我々もちょっとした好況にあずかった。
「こんな年が3年続いて欲しいね」と阿部さんと話したことを覚えている。
ボーナスを取ろうという茂田さんに、会社の体力をつけるほうが先だと、僕たち二人が反対して我慢をさせた。
そんなことから茂田さんと僕たちとの考えに隔たりがはっきりしてきたが、対立というほどあからさまなものでもなく、何といっても1対2という図式と、明らかに理はこちらにあったから、ほとんど二人で思うままに進めることが出来た。
当時の給料を含めた必要経費が年間約1,000万円、「2億円儲けたら遊んでられるなあ」と阿部さんと笑ったことがある。
お互い貿易がヤクザな仕事であることを感じ取っていたから、真面目一方の茂田さんとは水と油のように馴染めなかった。
と同時に、「二人でやったら会社を潰してしまうだろうな」とお互いに納得して笑いあった。
余りに気が合いすぎて、暴走するのが目に見えていたから。

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続 思い出すまま (29)阿部さんのこと(その3)

AvatarA父の散文を掲載した「思い出すまま」は、「(36)ヒーロー」で完結したと思ってた。
昨年父が亡くなった時に、父のPCのドキュメントをバックアップしていたんだけど、探し物が合ってフォルダを探っていると37番目以降の文章が別のフォルダに入っていることに気づいた。

これもまた昭和を生きてきた庶民の記録となっているので毎週1つずつ公開しようと思う。
父は愛知県知多半島の大野町に生まれ、中京商業の夜学から予科練に行き、戦後闇屋を経て神戸の小さな貿易会社で働いて家族を養ってきた。
昭和4年生まれの男は何を見て何を感じてきたのか?
それについて話ができればと思っている。


(29)阿部さんのこと(その3)

昭和28年夏、3年に及んだ朝鮮戦争が休戦になると、戦争の補給基地としての日本の好景気は、一挙に熱を冷まされて急にしぼんでしまった。
そして富士実業もそのあおりで10月にはあえなく倒産してしまった。
聞けば大阪の本社では調子に乗って商品相場にのめり込んでいたとか。
支店のわれわれ若い者には、何がなんだかわからぬままに寄る辺ない身になってしまったのである。
営業関係のものはそれぞれ伝を求めて散っていってしまって、支店長にすがるように残ったのは、茂田、阿部、吉田、僕と女子社員の山本のみとなった。
杉岡支店長は、同志社時代の学友だという、今治でタオル工場を経営するいわば金弦を見つけてきて社長に据え、新会社、富士繊維をでっち上げてくれた。
しかしそれもまた、当の新社長が相場に手を出して失敗、ほんの一年余りで立ち行かなくなってしまった。
今度はその借金を半田紡績に肩代わりさせて、またしてもフジテキスタイルと看板を架け替えて、三度目の出発という背水の陣を敷いた。
その惨めな会社が何とか借金を清算して、半田紡績から経営権を取り戻し、名実共に杉岡さんを社長としてまともな会社になったのは、更に三年ほども後のことである。

昭和30年春に僕が結核に罹り入院するまでの間、阿部さんは僕をほとんど毎週のように映画に誘ってくれた。
日曜日など二本立てを観るのが常だった。
主にアメリカ映画とフランス映画、時にイギリスものだったこともあるが、日本映画(邦画といった)はまるで観たという記憶がない。
今でも当時のスターの名前なら二三十人もすらすらと出てきそうな気がする。
ゲーリー・クーパーがかっこいいとか、ジャン・ギャバンの渋さがたまらないとか、バリー・フィッジェラルドの味がなんともいえないとか、デボラ・カーの美しさにまいってしまうといって、興奮して語り合ったものだ。

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続 思い出すまま (28)阿部さんのこと(その2)

AvatarA父の散文を掲載した「思い出すまま」は、「(36)ヒーロー」で完結したと思ってた。
昨年父が亡くなった時に、父のPCのドキュメントをバックアップしていたんだけど、探し物が合ってフォルダを探っていると37番目以降の文章が別のフォルダに入っていることに気づいた。

これもまた昭和を生きてきた庶民の記録となっているので毎週1つずつ公開しようと思う。
父は愛知県知多半島の大野町に生まれ、中京商業の夜学から予科練に行き、戦後闇屋を経て神戸の小さな貿易会社で働いて家族を養ってきた。
昭和4年生まれの男は何を見て何を感じてきたのか?
それについて話ができればと思っている。


(28)阿部さんのこと(その2)

この年もう一つ忘れられないのがジェーン台風である。
神戸を直撃したこの台風で、ただでさえ貧弱な交通、通信が寸断されて、ほとんど一週間近く仕事にならなかった記憶がある。
僕は阿部さんの家にまるで居候のようになって過ごした。
阿部さんのお母さんの出してくれたサラダの美味しかったことが忘れられない。
その頃経理から営業にまわされた僕は、多少の商品知識が活かせるのでやる気になっていたが、一方コレポン(商業通信文)の勉強に必死にならざるを得なかった。
先輩の吉村さんに笑われながら真っ赤になるまで添削されてもめげなかった。
やがて商業文には決まった型があって、格別感動的な文章を書く必要もないので、用が足せるくらいの手紙ならそんなに難しいことではなくなった。
月末に集中する船積みを捌くために、阿部さんはその前後十日間くらいは、通産省や銀行や乙中やと忙しくしていたが、時に「エッ?」と感心させられる知恵を発揮して、乗り切ってゆくのがいかにもスマートだった。
どんな小さな取引にも通産省のライセンスを取らなければならないし、通関の書類には銀行の認証がいった。
そしてそれらの書類がすべて合致していないと税関は通らない。
食い違いがないのが不思議なくらいだった。
書類を訂正する時間はほとんどの場合ない。
そこで阿部さんが考え出したのは、できるだけ大まかな書類を作るという技だった。税関に「違う」と言わせない範囲で品名や寸法をくくるという方法は誰もがさすがと感心したものだ。

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続 思い出すまま (27)阿部さんのこと(その1)

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昨年父が亡くなった時に、父のPCのドキュメントをバックアップしていたんだけど、探し物が合ってフォルダを探っていると37番目以降の文章が別のフォルダに入っていることに気づいた。

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父は愛知県知多半島の大野町に生まれ、中京商業の夜学から予科練に行き、戦後闇屋を経て神戸の小さな貿易会社で働いて家族を養ってきた。
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(27)阿部さんのこと(その1)

人は誰でも「忘れ得ぬ人」をもつ。 
長い年月を経て、ついに人生の終点が見えてきたころになって、たくさんの心の友を持つ人は幸せなのはいうまでもない。
しかし、もっと大事なのは、数ではなくて質であり、長さではなく密度である。 
その意味で阿部さんという友に廻り合えたことは、僕にとって大変な幸運であり「忘れ得ぬ人」の第一である。

阿部さんとの最初の出会いがいつだったか正確な記憶はない。
漠然と昭和24年秋だったように思う。 
その年の夏つまり昭和24年7月、それまで雇われていた闇商売(注)の織物商が、世の中の落ち着きとともに立ち行かなくなり、僕の身の振り方を心配した社長の紹介で、設立間もない貿易商社に入れてもらったのである。
富士実業株式会社、神戸支店という。
戦前の蝶理商店にいた社員が中心になってできた会社である。

 (注) 戦争中、極端な物資不足から消費物資の殆どが配給制度になり、手拭い一本に  至るまで「衣料切符」なるものが無いと買えなかった。当然の結果として不正取引が横行した。それを闇取引と呼んだ。

貿易会社といえば聞こえはよいが、実務経験者は常務取締役のみ、支店長は外地からの引揚者で、10人ほどの社員は学徒動員から帰ってから復学をして卒業したばかりの若者ばかり、毎日が勉強と経験の日々だった。
中学も満足に卒業していない僕のようなものにも、それなりの居場所みたいなものはあった。 
英語はまるで教わっていないから一つ一つ覚えてゆくよりなかったが、商品に関しては4年間の闇商売からえた知識が役に立った。
貿易自体が占領軍の管理下からようやく日本政府の手に移ったばかり、いわば皆がスタートラインに並んだような状態で、それぞれにチャンスが開かれていた。
無鉄砲な若者にとって何でもできるような気になっていたのも無理はない。

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続 思い出すまま (26)長谷寺

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これもまた昭和を生きてきた庶民の記録となっているので毎週1つずつ公開しようと思う。
父は愛知県知多半島の大野町に生まれ、中京商業の夜学から予科練に行き、戦後闇屋を経て神戸の小さな貿易会社で働いて家族を養ってきた。
昭和4年生まれの男は何を見て何を感じてきたのか?
それについて話ができればと思っている。


(26)長谷寺

本尊十一面観世音がご開帳とあって、二十数年ぶりに長谷寺を訪れた。
前回来たのは五月だったか満開のボタンを観るのが目的だった。
年齢のせいもあるのだろう、仏像には殆ど無関心だったと思う、少なくとも記憶には全く残っていない。
印象的な緩い勾配の、しかし長い階段の回廊を登るのが心地いい。
心の落ち着きと信仰心の集中を誘う見事な設計である。

十メートルを超える巨大な菩薩像が楠の一木造りとは驚きである。
室町時代の作というからそれほど古いものではないが、当時はまだこれほどの巨木が日本の山にはあったのだ。
どんな手立てで切り出し運んだものか、昔の人々の信仰心に頭が下がる。
そっと足の指に触れてみた。
この観音様を拝みに訪れた何百万という先輩諸氏と繋がりが出来たような不思議な感覚があった。
舞台に出ると谷から緩やかに吹き上げる秋の風が心地よい。
寺にお参りするというのは観光ではないということをつくづく感じたものだ。

前回来たときは電車の駅から歩いてきたので殊更長いと感じた門前町も、車では風情がない。
両側に連なる店屋は何時頃から並び始めたものだろう。
多分庶民が観光を交えて押し寄せ始めた江戸時代ではないかと思われる。
その以前は寂しく細く長い谷底のような坂道をひたすら信仰にすがって登っていったものだろう。
「長谷の初瀬」と言われていたのが、いつのまにやら長谷(ながたに)をハツセと読み、やがてハセと読むようになった、とどこかで聞いたような気がする。
してみれば創建当時は「初瀬の観音様」と呼ばれていたのかも知れない。

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テーマ : 神社仏閣
ジャンル : 学問・文化・芸術

続 思い出すまま (25)秋篠寺

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昨年父が亡くなった時に、父のPCのドキュメントをバックアップしていたんだけど、探し物が合ってフォルダを探っていると37番目以降の文章が別のフォルダに入っていることに気づいた。

これもまた昭和を生きてきた庶民の記録となっているので毎週1つずつ公開しようと思う。
父は愛知県知多半島の大野町に生まれ、中京商業の夜学から予科練に行き、戦後闇屋を経て神戸の小さな貿易会社で働いて家族を養ってきた。
昭和4年生まれの男は何を見て何を感じてきたのか?
それについて話ができればと思っている。


(25)秋篠寺これは又何とも奈良の寺らしい。
新薬師寺や法華寺、唐招提寺とたたずまいが似ている。
天台、真言のけばけばしさが一切ないのが、平安時代以降の寺との違いだろうか。
年代が古いといえばそれまでだろうが、遣唐使が持ち帰ったものが、びっくりするような「改革」だったのは、容易に想像できる。
鳴り物入りで衆生を救ってやるという意気込みが、最澄、空海以後の寺にはきらめいて見える。

 伎芸天立像が有名で、それだけを目当てに拝観に来る人が多いようだが、僕個人の好みからすれば、日光、月光の両菩薩のほうが親しみが持てる。
仏像が古いからとか珍しいからとか「値打ち」で評価されすぎていないか?

 苔の光る庭はこじんまりとしているが美しい。
なんとかこの寺全体の雰囲気をそのまま保っていってもらいたいものだ。

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テーマ : 神社仏閣
ジャンル : 学問・文化・芸術

続 思い出すまま (24)野崎観音

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これもまた昭和を生きてきた庶民の記録となっているので毎週1つずつ公開しようと思う。
父は愛知県知多半島の大野町に生まれ、中京商業の夜学から予科練に行き、戦後闇屋を経て神戸の小さな貿易会社で働いて家族を養ってきた。
昭和4年生まれの男は何を見て何を感じてきたのか?
それについて話ができればと思っている。

(24)野崎観音
”のざきまーいイーりイわー やかたぶウねでエーまあいイーろー” と少し甲高い声で歌う東海林太郎の「野崎小唄」がでたのは、昭和10年だそうだから、僕が小学校へ上がる前である。
当時の青年の間で流行ったかどうか。
いや流行ったに違いない。
娯楽の何もないときである。若者たちが、ラヂオやレコードで、必死に覚えただろうことは想像がつく。
僕が口ずさむようになったのは、多分戦後のテレビのまだない頃、ラヂオを通じて刷り込まれたものだろう。テレビが始まってからでも、あのマイクの前に直立する姿勢の良い姿はしばしば見られた。
こうして昭和20年代生まれまでの男には、野崎小唄はほとんど自然に刷り込まれたと言えよう。
野崎観音が何処にあることも知らず、歌舞伎を見たこともない大多数の若者もなべて。

野崎観音は、南北に延びる生駒山系が、北の清滝峠に落ちてゆく手前に、少し西に出っ張った野崎という岬にある。
大阪の方から言えば、平野が終わり生駒山塊に突き当たったところである。
観音堂のある高台から西のほうを望むと、大阪市の東北のゴタゴタした町並みが眼下を埋め尽くしている。
お染と久松の心中事件のあった300年ほど前は麓一帯は湿地帯で、大阪から寝屋川を遡る船で参詣するのが、一般的だったようだ。
今は隙間なく家が建て込んでまるで面影はない。
駐車場も覚束なくて、参道手前のスーパーに車を入れるくらいである。
その小さな観音さまが、どうしてそんなに人々を集め有名だったのか、お染久松の墓参りかと思っていたが、そうではなく、もともとは西行との歌のやりとりで有名な江口の君の縁起によるのだそうだ。
大阪の商家の娘たちが遊山に出掛けるには手ごろな近さだったに違いない。
そしてお染と久松の心中話が、浄瑠璃、歌舞伎に繰り返し上演されて人気が定まったというあたりは、昨今のはやりと同じである。

野崎小唄の作曲者大村能章という人は、他に「麦と兵隊」「同期の桜」「そろばんチャチャチャ」「雨の田原坂」「真室川音頭」など、昭和の前半に馴染みの歌をたくさん作曲しているそうだ。

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テーマ : 音楽的ひとりごと
ジャンル : 音楽

続 思い出すまま (23)総理大臣の書初め

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昨年父が亡くなった時に、父のPCのドキュメントをバックアップしていたんだけど、探し物が合ってフォルダを探っていると37番目以降の文章が別のフォルダに入っていることに気づいた。

これもまた昭和を生きてきた庶民の記録となっているので毎週1つずつ公開しようと思う。
父は愛知県知多半島の大野町に生まれ、中京商業の夜学から予科練に行き、戦後闇屋を経て神戸の小さな貿易会社で働いて家族を養ってきた。
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(23)総理大臣の書初め
麻生総理大臣が書き初めを披露した。

「安心 活力」の四文字を二行に書いて見せた。
どう見ても上手とはいえない代物だった。
むしろはっきり下手と判るレベルで、普通の感覚の持ち主なら、テレビの前で見せびらかすことはないだろう。
さすがに褒める人はいなかったが、誰も下手だと言う人がいないのにびっくりした。
相手が総理大臣では言いにくいのだろうか、あれほど常日頃総理をこき下ろしている人たちが、何も言わないのは、彼らも書の上手下手が判らなくなってしまっているのだとしか思えない。
明治の政治家の書が立派だったのはともかく、戦後でもそこそこの書が書けた人はいた筈である。
それが遂にこの有様になったとは情けない。
麻生首相は漢字の読みもお粗末の一語に尽きるから、書がへたくそだからといって不思議ではないが、「テレビで披露するのは止めなさい」くらいの諫言をする者が居ないとは驚きである。

年末、その年の字として清水寺管長が大書した「変」という字は大変力があって立派だと思ったが、それに対しても「何かヘンだ」といっていたテレビのコメンテーター(僕の嫌いな人種)がいたが、その人もまた書の判らない人だということは判った。
総じて書というものが一部の人々のアートと成りおおせたのだから、年頭に人前で得々と披露する愚はお止めなさい。(2009.1)

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テーマ : 政治・経済・社会問題なんでも
ジャンル : 政治・経済

続 思い出すまま (22)亀田問題

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昨年父が亡くなった時に、父のPCのドキュメントをバックアップしていたんだけど、探し物が合ってフォルダを探っていると37番目以降の文章が別のフォルダに入っていることに気づいた。

これもまた昭和を生きてきた庶民の記録となっているので毎週1つずつ公開しようと思う。
父は愛知県知多半島の大野町に生まれ、中京商業の夜学から予科練に行き、戦後闇屋を経て神戸の小さな貿易会社で働いて家族を養ってきた。
昭和4年生まれの男は何を見て何を感じてきたのか?
それについて話ができればと思っている。

(22)亀田問題

若いボクサー亀田の反則の問題で百家争鳴の感がある。
それぞれの意見が相当の理由があり一々尤もだとは思うし、セコンドである父親が反則を指示していたとしたら、資格の無期限停止は議論の余地もない。
ただ記者会見で、本人は「反則は指示していない」と言っている点をそのままにしているのは、納得できない。
多分その辺りをはっきりさせないままの処分だろうが、としたらいかにも中途半端ではないか。
処分の是非と理由をなぜもっと明らかにしないのか、不満が残る。
一番不満なのは、この若者の無礼な言動を注意する人が、やくみつる氏以外ほとんどないことだ。あの無礼さはパフォーマンスとは別物だ。
故意にしろそうでないにしろ、明らかに父親から受け継いだものだろう。
勝てばいい、強ければいいというのは、日本の文化にはなじまない。
勝っている間、そこのところを封じ込めてきたのは、マスコミに責任がある。
マスコミが己の都合の悪いことに成るべくふれないようにするのは、自然といえば自然である。
彼の度を越した無礼を大目に見るのは、営業上やむをえないなら、それもまたマスコミの品性の限界としよう。
だったら尚更、この若者の無礼さをもっと取り上げなければいけない。
彼に、彼の父親には到底出来そうも無い、礼儀のなんたるかを教えよ。  

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テーマ : ボクシング
ジャンル : スポーツ

続 思い出すまま (21) 高校は営利会社か?

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昨年父が亡くなった時に、父のPCのドキュメントをバックアップしていたんだけど、探し物が合ってフォルダを探っていると37番目以降の文章が別のフォルダに入っていることに気づいた。

これもまた昭和を生きてきた庶民の記録となっているので毎週1つずつ公開しようと思う。
父は愛知県知多半島の大野町に生まれ、中京商業の夜学から予科練に行き、戦後闇屋を経て神戸の小さな貿易会社で働いて家族を養ってきた。
昭和4年生まれの男は何を見て何を感じてきたのか?
それについて話ができればと思っている。

(21)高校は営利会社か?

「うちの高校からはこれだけの生徒が有名大学に進学していますよ」と言わんばかりの進学率を掲げていた学校が、とんでもない芸当をやっていたのが判った。
その高校に拠れば、2006年度の関西有名4私大(関西、関西学院、同志社、立命)への合格者数は117と発表していた。
素直に聞けば、大勢の受験者のうち、117名が合格したと思うのが普通だろう。
驚くのはこの117の数字のうち、70余りは唯一人で合格したのだという。
そんなことが出来るとは到底思えないが、可能だという。私立大学というのは、学部によっては、共通一次試験の成績が優れていれば、それだけで通るのだそうだ。
つまりその一人の生徒は、70回以上も試験会場に足を運んだわけではないのだ。
日程上からもそんなことが可能だとは到底思われない。
書類だけで試験が通るという、いはば推薦入学のような盲点を利用したのが、この数字の出所だった。

 その次に驚くべきは、その一人の生徒は、国立大学へ入学したという。
私立大学への入試は、高校側の依頼によって、次々と受験の申し込みが為され、受験料は全て高校側が負担したというのだ。
挙句の果て、高校はその生徒に謝礼まで出したというから開いた口が塞がらない。
学校側の意図ははっきりした。大学進学を希望する生徒を集めるための宣伝であり、その為の投資ということだ。

 更に驚くべきことに、校長は記者会見で「今後、是正する方向で検討したい」と言い、言外に「発表の仕方が適当ではなかった」ような口振りだった。
彼には、学校経営が全てであって、学校教育は眼中に無いのは明らかだ。
如何にして受験希望者をたくさん集めるかが、彼の校長としての仕事であり、そのために苦心惨憺している様が手に取るように見える。
救いがたいのは、「塾はみんなやってることだ」と言いたげであり、自分の高校の誇りのようなものがまるで無いことだ。
自らの高校の卒業生が、やがて大人になったときに、名誉や地位や収入よりも誇りを持った人間になって欲しいという願いはないのだろうか。
来年のこの高校への受験者数が気になる。(2007.7.25)

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テーマ : 大学受験
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spacecowboys A H

Author:spacecowboys A H
Space Cowboys は、2人の親父です
"A" システムエンジニア・
   中日ファン・世情に疎い
"H" 総務畑・てっちゃん・
   阪神ファン・雑学が得意
2人ともイーストウッド好きの還歴男

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