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阪神淡路大震災25年

昨日は阪神淡路大震災から25年の日だった。
年を取ると25年前は歴史の彼方ではなく、昨日の延長上にある。但し記憶はそれに相応しく明確というわけには行かず、むしろもっと昔のことの方がクリアーに覚えていたりする。

しかし、あの震災のことははっきり覚えている。
既に大阪に転居していて、地震は知りながらも普通に出勤した会社のテレビで見た生まれ育った町の目を疑う光景、当日の夜芦屋まで母を迎えに行ったこと、その途中でバスが崩れ落ちた高速道路に乗り出して止まった現場の横を通ったこと、友人宅まで足を伸ばす決断ができなかったこと、母を連れ帰った後は仕事の多忙を言い訳にしばらく神戸に行かなかったこと、やっと海路からこの目で確認に戻った故郷の変わり果てた姿等々、、。

昨年「117の思い出」シリーズ(http://spacecowboys33.blog130.fc2.com/blog-entry-3755.html他*同記事の関連記事欄あるいはカテゴリーメニュー「時事問題<震災」からアクセスください)として実際に当事者であったAの思い出に加えて、これらの記憶のほとんどについて詳しく語っているが、私の思い出の多くは悔恨にまみれたものだ。
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テーマ : 思うこと感じること
ジャンル : ライフ

117の思い出(16)麻婆丼

AvatarA
震災後三宮元町界隈の飲食店はライフラインの断絶により皆閉まっていた。
会社に出勤する時は昼食用におにぎりを持って行った。
季節は真冬で温かい食事が欲しい時期だ。
そんな中、震災後10日位でいち早く営業を始めたのが南京町だった。
もちろんライフラインは復旧していない。
プロパンボンベを手に入れ、炊き出しのように路上で温かい食事を食べさせてくれた。
メニューは中華丼と麻婆丼。
発泡スチロールの容器にご飯をよそい上から八宝菜/麻婆豆腐をかけたものだ。
路上で立ち食いしたあの丼の温かさは忘れられない。
温かさだけではなく、復興への元気ももらった食事だった。


このシリーズを通じて感じ、実際話もしたことを少し言葉を変えて言ってみると、「何故あの時、自分はいなかったんだろう?」ってことだ。
しかも、例えば遠く離れて東京にでもいたのならいざ知らず、生まれ故郷から目と鼻の先の大阪にいながら何もできなかった、いや、しなかった。

言い訳は色々浮かぶけど、結局は思いの足らなさのなせる業、今となっては申し訳なさに恥じ入るばかりだ。

テーマ : 生きる
ジャンル : ライフ

あの日の星空

AvatarA東北の地震のあった日の夜、星が凄くきれいだったらしい。
被災した人々の多くが「あれほどきれいな星空は見たことがない」と口にする。
そんなドキュメンタリーを観た。

星空がきれいだったのは、停電で地上の灯りが消えていたので、普段は見えないような等級の星まで肉眼で見えたせいらしい。
津波で近しい人を多く失った被災者の心に「亡くなった人の魂は星になる」というおとぎ話が浮かび、その美しさがさらに心に刻まれたようだ。

人々は、津波に遭遇した話とセットで美しかった星空の話を語り合う。
それは、被災者同士の共感を呼び、慰め合う効果も連れて来てくれたようだ。

番組で紹介されたエピソードの中で印象的だったものを1つ紹介しよう。

ある婦人は自宅で津波に襲われ、目の前で家族をさらわれた。
自身も7時間水に浸かり、死を覚悟したところでようやく救助された。
ストレッチャーに乗せられて運ばれる時に若い救急隊員が声をかけた。
「××さん、周りは見ないでいいですよ、大変なことになってますから。
空を見上げていてください。
星が応援してくれてますよ」
彼女は流されてしまった家族が空にいる気がして心が少し救われた。
そして美しい星空の記憶は癒しとして記憶に残った。

この救急隊員のような感受性を持った若者がいる限り日本は大丈夫だと思う。

テーマ : 生きる
ジャンル : ライフ

117の思い出(15)避難

AvatarA
うちの会社の社員は神戸市在住が中心だったので、被災された方も多かった。
連日被災者の窮乏が報道される中、家族で話し合って会社の総務部に申し入れた。

「社員で避難された家族があれば紹介してほしい。
1家族ぐらいなら預かれますよ。」

こうして総務が紹介してくれたKOさん一家を2月~4月の3か月間預かった。
KOさんは同年代で、若い頃何度かいっしょに飲みに行ったこともある温厚な人だ。
KOさんと両親と弟の4人に寝場所と風呂と食事を提供した。

KOさん一家は激震地区の長田の菅原市場に住んでいた。
家は全壊で、お母さんはけがをされていた。
着の身着のままでの避難所生活は大変だったろうと思う。

ガレージの上の離れで生活してもらったので、最低限のプライバシーは保てたと思う。
それでも、3か月も経つと、ルーズになりギクシャクするところも出てくる。
KOさんも気を使っただろうと思う。
5月のGWに賃貸住宅へ移っていかれた。

あれから24年が経った今でも、KOさんからは中元歳暮が届く。

テーマ : ♪人生・生き方♪
ジャンル : ライフ

117の思い出(14) 巨大地滑り


今回のシリーズの中でも触れたが、さしたる被害のない大阪にいた者にとっては、すぐ近くの神戸があんなにひどいことになってるとは思いもよらなかった。

それは私だけのことではなかったようで、大阪の消防から「応援に行きましょうか?」と聞かれた神戸の返事は、「えっ、来れるんですか?」だったと言う。

当時の関西人の地震のイメージはもっと広範囲なもので、局地的なのは「地滑り」と認識していたが、それはごく小規模なものだった。

それまでもプレート型だけでなく、内陸の断層型の大きな地震だってあったはずなんだが、たまたま都市部ではなくて甚大な被害にはならなかったからなのか念頭になく、「これは初めて見る巨大な地滑りだ。」と思った。

テーマ : 自然災害
ジャンル : ライフ

117の思い出(13) その日の夜


その日私が大阪にいたのは「117の思い出(3)その日」に書いた通りだ。

会社でテレビを見て、初めて神戸の様子を知り愕然となった。幸い垂水にいた妹一家は、震源に近いが断層のラインから外れて無事だった。
芦屋に住んでいた母がなかなか連絡が取れなかったが、近くの幼稚園に避難しているのがわかったので、夜迎えに行くことにした。当日の夜はまだ道路に規制がかかっていなかったのだ。

また、ほんの少し先の本山に住んでいる友人がいて、勤務先からの情報で無事は確認できているし、その時点で家にいるかどうかもわからないものの、気にかかるので水等を持って出た。

初め43号線で行こうと思ったが大渋滞。トンネルで止まっている間など、余震が来ないかいささか気味悪かった。
2号線も同じ状況なので北へ向かい、山手幹線に出るとまだガラガラだった。

しかし、当時は武庫川を渡る橋はまだ未完成で、そこからは細い道で171号線に合流しなければならず、その少し手前から進まなくなった。しかも、橋はとても古く、この時も余震が想像され嫌な感じだった。

171に合流してからなおさら停滞はひどくなった。171自体が2号線に合流するのだから当然だ。沿線には屋台が出ていて、実際空腹の人は助かるだろうし、普段からそこにいたのかも知れないが、商魂たくましいなとの印象が残っている。

その辺りは土地勘があるから脇道を行こうかと思ったが、やはりあまり山際は不安なので自重して、動かない2号線に出てから少し山手に入ってみると、多くの家が倒壊し倒れた木が道を塞いでいたので引き返した。

裏道は危険も多そうなのでそのまま43号線入口近くまで南下すると、あの有名な、前輪を崩れた高速道路に乗り出したところでギリギリ止まったバスの姿が目の前にあった。

侵入できないので再びもう少し北上して、母親の避難している芦屋の幼稚園より先に友人宅を目指そうと、勝手知ったる旧道に繋がる道に出てみると、そこはまるで別世界だった。
真っ暗闇の中、犬の遠吠えだけが響き道路の舗装は完全に剥げてしまっている。街全体が死んだようで、何かの近未来SF映画で見た荒廃してしまった街みたいだ。

この道を進んで行って車が何かのトラブルにあったとしても、誰もそんなものを助けに来る余裕はなかろう。
会社で公式に宣言して来た母親の迎え、ひいては翌日の勤務への支障を考えて、しばらく悩んだ末友人宅へ行くのを断念してしまった。

結局この時私が駆けつけようが駆けつけなかろうが、状況に影響をもたらすものではなかったのだが、この一件は自分の勇気のなさや気持ちの足らなさを思い知らされたものとして、私の人生の中でも何本かの指に入る悔恨事の一つとなってしまった。

その後、無事母親を大阪へ連れ帰ったのだが、2号線の武庫川に架かる橋を越えたとたんカラオケ店のネオンが目に飛び込んで来た。
そこには何事もなかったかのような日常が広がっていて、とても不思議な感覚を覚えたのが鮮明に記憶に残っている。

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テーマ : 自然災害
ジャンル : ライフ

117の思い出(12) 遺族インタビュー

AvatarA
震災の3年後、神戸大学の塩崎/北後両教授の研究室にて、震災遺族へのインタビューが行われた。
震災犠牲者の遺族に当時の建物の状況や救助の状況などを学生がインタビューアーとなり聞き取りし、オーラルヒストリーとして後世に残そうというプロジェクトだ。
ネットサーフィンで知り、サイトを眺めていると、マスコミの記者のコメントが載っていた。
NHK、朝日新聞、神戸新聞などの記者がプロジェクトを取材後、プロジェクトメンバ(特に学生たち)に対してエールを寄せていたんだ。
遺族にインタビューするということは、様々な摩擦を生むことをプロの記者は理解しており、その困難な事業に立ち向かう学生たちを応援しアドバイスを与えていた。
その中でNHKの記者が強調していたのは「感受性を磨け」ということだった。
感情的になりがちな遺族に対面する時、相手の気持ちを思いやることが出来る感受性が必要だと。
プロから学生への素晴らしい助言だと思った。
政府寄りだとか偏向している報道が問題視されがちなNHKや朝日新聞だが、こういう記者もいることを知ってからは、いつか立ち直ると期待してしまう。

テーマ : 生き方
ジャンル : ライフ

117の思い出(11) 炭火焼肉

AvatarA震災直後の何週間かは交通網がズタズタになり、なんとか運行している鉄道バスを乗り継いで出勤していた。
当然きれいにつながっているいるはずもなく、途中に歩きを挟みながらの通勤だった。
事務所に電気が来ていないので暗くなったら仕事が出来ず、早々に帰るしかない。
だから通勤時間を確保できたとも言える。
その代わり朝は早く自宅を出る必要があり、早寝早起きに適度な運動(徒歩通勤)が加わり、どんどん健康になっていった。
そんな帰り道、三宮から新神戸を目指して歩いていると赤ちょうちんが目に入った。
ガスがほとんど復旧していない時期だったので、ほとんどの飲食店は店を休んでいる。
しかしその店は七輪を道端に置き炭火で焼き肉を食わしてくれた。
店内はボロボロだから、歩道に椅子と机を置いて営業していた。
遠赤外線効果もあり、健康的な生活もあり、久しぶりだったのもあり、あの時の缶ビールと焼き肉は美味しかったなあ。

テーマ : 食品・食べ物・食生活
ジャンル : ライフ

117の思い出(10)地下鉄の沈黙

AvatarA地震の直後、人々はいつもより饒舌になっていた。
出会う人に自分の体験を話し、相手の話を聞き、復旧情報を交換し、知り合いの消息を確認する。
あの日の神戸市営地下鉄の満員の車内もうるさい位に騒がしかった。
すぐに復旧した地下鉄なのでいつもより混んでいたんだと思う。
(余談だが、同じように揺れてるはずなのに地下鉄が高架より地震に強いのは不思議だ)
私も後輩と席に座り話をしていた、地下鉄の豪音に負けないように声を張って。
まだ余震が毎日あった時期で、もし今余震が来たら、という話になった。
「この電車はかなり高速で走っているから、脱線したらぐちゃぐちゃに潰れそうだ」
「そこらじゅうにある壁や柱に激突するな」
「もし火事にでもなったら、地下鉄じゃ逃げようがない」
「その時は覚悟決めるしかないな」
我々の会話は周囲にも聞こえていたんだろう。
気付いたら、あれほど騒がしかった車内が静かになっていた。

テーマ : 生きる
ジャンル : ライフ

117の思い出(9)まるで・・・

AvatarA地震からだいぶたって交通機関が復旧し始めた頃、長田兵庫のあたりをJRで通った。
JRの高架は激震地区を通過する。
火災も多発した地区でそこらじゅうの建物が崩れるか焼けるかしていた。
徐行運転しかできないところがあり、いやでも被災した街の光景が目に入ってくる。
マスコミの報道でたくさん情報は入っていても、眼前に広がる光景は受け入れがたい非現実的なものだった。
人間は想像を超える光景に出くわした時、言葉を失う。
ようやく浮かんだ言葉は「まるでテーマパークみたいだ」だった。
不謹慎だと思う。
しかし、多くの人がここで亡くなっているのは分かっているが、それと眼前の景色が結びつかなかったのだ。

テーマ : 修羅場
ジャンル : ライフ

プロフィール

spacecowboys A H

Author:spacecowboys A H
Space Cowboys は、2人の親父です
"A" システムエンジニア・
   中日ファン・世情に疎い
"H" 総務畑・てっちゃん・
   阪神ファン・雑学が得意
2人ともイーストウッド好きの還歴男

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