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敬語

しばしば過剰敬語等敬語の乱れが指摘されることがある。

私はそれについては、ワープロ機能も関係があると思っている。
自分自身ちょっとやり過ぎかなと思っても、選択候補に上がってれば、まっいいかと打ち込んでしまうことがある。
あれが、手書きなら面倒くささと量りにかけて抑制が掛かるんじゃないかと思う。

但し、美しいとされる標準の敬語もそもそもそんなに厳格なものじゃないんじゃないかという気がする。

「行く」、「来る」、「いる」の敬語がいずれも「いらっしゃる」だなんて、機能的に考えると言葉としておかしいもの。
とりあえず、尊敬の意思さえ伝わればいいってことだったんじゃないか?

AvatarA過剰敬語と言われて連想するのは「おみおつけ」だ。
漢字で書くと「御御御付け」。
ここまでくると天皇陛下の食卓に出す料理のような印象だ。
それが庶民の食卓に出すスープの呼び名なんだから。

バトル漫画じゃないけれど、一旦上げたハードルは下げられない、という感じ。


【A】過剰敬語と言われて連想するのは「おみおつけ」だ。
漢字で書くと「御御御付け」。


そう。とかく新しいものだけが批判されるが、今大きな顔をして定着してるものにも出自の怪しいものはあるってことだ。
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テーマ : ことば
ジャンル : 学問・文化・芸術

「はる」

大阪に住むようになってもう30年近くなり、神戸時代には東京在住期間を含んでいるので、物心ついてからに限れば、もう大阪の方が長くなった。

東京弁乃至標準語も使えるが、基本関西弁を話している。それも大阪弁ではなく今でもゴリゴリの神戸弁である。

そんな私でも、こんな便利なものはないと使う大阪弁(京都でもより広い対象に使うようだ)が「~はる」だ。

あまり他地域には見られない軽度の敬語は、付き合いが長くなってよそよそしくはしたくなくてもタメ口というわけにはいかない、そんな状況の時に有効で、会話をスムーズに進めるのに役に立つ。

「何食べはりますか?」なんてね。

テーマ : ことば
ジャンル : 学問・文化・芸術

ヘボン

恥ずかしながら、ヘボン式ローマ字のヘボンのスペル、“Hepburn”だと知らなかった。

そう、オードリー・ヘップバーンと同じだったんだね。

ちなみに、ヘボンは同じヘップバーンでもキャサリンの方と同じ一族らしい。

テーマ : 教育
ジャンル : 学校・教育

続 夕食、夕ごはん、晩ごはん、夜食、夜ごはん

AvatarA先日テレビで日本人の食事習慣の変遷について紹介していた。
江戸の初期までは朝夕の二食で、暗くなったら寝ていたそうだ。
それが菜種油が安くなって行灯が庶民にも普及し、晩御飯の習慣が出来たらしい。
さらに江戸に住むの庶民は寿司などの屋台の発達で間食が増え1日5食なんて時代もあったらしい。
現代人よりだいぶ豊かな食生活を送っていたのかもしれない。


関連記事へ:「夕食、夕ごはん、晩ごはん、夜食、夜ごはん」

テーマ : ことば
ジャンル : 学問・文化・芸術

続 中国人の斜め読み

AvatarA 「中国人の斜め読み」でHが言ってるのは、日本人は斜め読みの時、助詞で文章の大意を予想するってことかな?
だとすると滝沢カレンの文章は斜め読みにくそうだ。







先の記事の趣旨はかなは読まないということなので助詞も眼中にないとして書いてるんだけど、言われてみると確かにAの言うように助詞で大意を予測している場合もあると思う。

特に格助詞は重要で、例えば英語なら語順で峻別しているところそれによって見分けているので、注意しているような気がする。

しかし、そのシステムはよくわからないなあ。

テーマ : ことば
ジャンル : 学問・文化・芸術

中国人の斜め読み


ずっと以前、「英語の斜め読み」で英語では通常は斜め読みができないという話をした。

そもそも我々日本人は漢字かな混じりの文書を読み解くことにかけては優れているけど、アルファベット単一の文章を一直線に読みことにかけては例えば英語ネイティブには敵わないとも話した。

さて、その漢字かな混じり文を読む場合、我々日本人はほぼかなしか読んでいないわけだけど、中国人も同様のようだ。

彼らが日本語を音読するのを聞くと、助詞の機能を理解はしていてそれをテーマにした問題は解けたり、書き分けたりできるレベルの者でも、いざ読むとなるとずいぶん助詞の扱いがぞんざいなことでそれが分かる。

我々日本人は黙読で読み飛ばしていても、音読の場合はそんなことはしないし、例えば読み飛ばした文章について話す場合、補正して再現することができるが、彼らは飛ばしたっきりだ。

テーマ : ことば
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夕食、夕ごはん、晩ごはん、夜食、夜ごはん

「朝」・「昼」の食事は「朝ごはん」・「昼ごはん」でそれぞれに漢語の「朝食」・「昼食」も貼りついている。
ところが、夜は一筋縄では行かない。

元々「晩」と「夜」という二つの表現がある上、食事に関しては「夕」も用いられる。さらに漢語との対照も素直には行かない。

和語ではかっては「晩ごはん」が主流で一部に「夕ごはん」が用いられていたが、最近では「夜ごはん」も用いられるようになり、既に市民権を得ているようだ。

食事の時間が遅くなって来たからと言われるが、私達の世代では既に「晩ごはん」が主流で、「夕ごはん」からの移行が起こったという認識はない。

そして不思議なことに漢語の方は今だに「夕食」が用いられ、「晩食」は使われない。
さらにややこしいのは「夜食」は通常は食べない4回目 の食事を指し、「夜ごはん」が認められてくると、漢語と和語で別のものを示すことになってしまった。

ちなみに一応「~食」を漢語、「~ご飯」を和語として扱ったが、「あさ」、「ひる」、「よる」は確かに訓読みではあるが、実は「御(ご)」も「飯(はん)」も音読みだから「ごはん」は和語とは言えない。

さらに、「晩(ばん)」も音読みだ。
だから、「晩ごはん」はその柔らかな語感とは裏腹に漢語とは言い難い。

そして、「夕食」の「夕」は逆に訓読みとどうにも複雑だ。

テーマ : ことば
ジャンル : 学問・文化・芸術

「いる」と「ある」

日本語で外国人を悩ますものの一つに「いる」と「ある」の使い分けがある。
まずは生物と無生物と言われるけど、じゃあ植物はとなって、次に動くか否によるとなる。

ただ、動くものでも機械は?という疑問が湧き、無生物だから「ある」のはずだけど、工作機械は「ある」だが、いわゆるロボットだと物語の世界はもちろん、実世界でも「いる」を使う局面が増えていくと思われる。

そこに生命や意志・人格を感じているかどうかの問題とも言われるが、「動く」を「作動」ではなく「移動」に限れば、「動く」ものは「いる」で説明がつきそうだ。

車でも今現在止まっていて先の運転・運行つまり「移動」も想定されない、例えば駐車場の自家用車などは「ある」だけど、電車・バス・タクシーなどの乗り物は機械なのに「いる」が使われる例としてよく挙げられ、背後にいる運転手等に人格を感じてるからとも説明されるが、これも「移動」の概念でもこと足りそうだ。

というか、そもそも「移動」には何らかの意志が伴うものという潜在意識があるように思う。

生物でも死んでしまって動かなくなれば「ある」が使われるようになる。市場の魚しかり、人間でさえ「死体がある」である。

しかし、知己の死体を「ある」とは言えないことを考えると、「移動するもの」と「意志のあるもの」はほとんど一致するが、やはり「意志」の有無が優先するようにも思える。

さて、冒頭の植物は生物だけど「ある」というのも、「移動」しないからでも片付けられそうだが、昨今植物にも「意志」があるという認識も生まれているように思われ、以前より「ある」を使うことを逡巡する気分があるような気がする。

かと言って「いる」は違和感があるからなるべく別の動詞、「咲いてる」「生えてる」「植えられてる」等に言い替えてるんじゃないか?

医学の進歩により人間に「植物状態」があり得ることになったことと関わりがあるかどうかはわからないけど。

テーマ : ことば
ジャンル : 学問・文化・芸術

「なので」

この10年ぐらいよく聞くようになった言葉に「なので」がある。
「~なので」と前に言葉があって理由を示す表現は昔からあったが、それを単独の接続詞として文頭に用いる人が増えている。

「だから」では幼稚で言い訳がましい感じがするし、かと言って、「と言うわけで」ではちょっと他人事な説明に聞こえるので、「なので」は重宝なようだ。

また、本来「~なので」としての用法であった名残りで、ある程度具体的な理由を指すことが想起させられる分、会話する者の間で認識のズレがあった場合話が食い違うリスクもあると思うのだが、逆にそれを承知で使うことで自分達は意思の疎通・情報の共有が出来てるよねというアピールになってる部分もあるように思う。

そうは言っても最初は違和感があったものだが、随分慣れてしまった。ただ、私自信は喋りではあまり使わない。書き言葉では尚更使わないが、不思議なことに手紙文と会話を言ったり来たりしているこのブログでしばしば使ってしまう。

テーマ : 文明・文化&思想
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イントネーション

日本語ではアクセントが音節間の音の高低(英語などはストレスアクセント)なのに対して、イントネーションは文全体の音の高低のことを言う。

文全体の音の高低という表現にとらわれると、何だかアクセントよりも長いスパンでの音の上下動のような気がするが、じゃあ単語内のアクセントとの関係はどうなるのという疑問が沸いて来る。

確かに特定の方言において、単語内アクセントとは別に文を支配するイントネーションというのもあるような気がするが、実際イントネーションが話題になるのは、ほとんどの場合疑問文における上昇調だ。
その違いが文の意図(単語の意味ではなく-後述)に影響を与えるからだ。

そしてその場合、文全体と言いながら実は文末の一語のそのまた最後の音節の中での上昇であることが多い。
何しろ極論すれば一文一音節の場合もあるんだからやむを得ない。
例えば「で?」とか「え?」とか。

結局文全体と言いながら実際は、2音節以上の音の高低であるアクセントよりも短い音節内の高低であることが多く、むしろ中国語などの声調と近いものがある。

但し、声調は単語そのものの意味の違いをもたらすが、イントネーションは疑問文か平述文かの意図の違いを示すだけで、それが含まれる単語の意味は変化させない。
単語の意味の違いをもたらすのは、日本語では前述の音節間の音の違い、アクセントだ。

イントネーションは一般的な説明とは違い声調に近い音節内変化になってしまっているが、それはそれでアクセントとの差を明確にする役目は果たしているように思う。

テーマ : 文明・文化&思想
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プロフィール

spacecowboys A H

Author:spacecowboys A H
Space Cowboys は、2人の親父です
"A" システムエンジニア・
   中日ファン・世情に疎い
"H" 総務畑・てっちゃん・
   阪神ファン・雑学が得意
2人ともイーストウッド好きの還歴男

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